和多田貢 この人も生没年不詳…。しかし『旧幕府』の「岡崎脱藩士戊辰戦争記略」によれば
「年少くして能く総括の能力に富み」とあるので若かったらしい。
岡崎藩の藩医であった和多田は、降伏という藩の方針を潔しとせず脱藩。
遊撃隊に参加すると第三軍(岡崎脱藩者からなる)の隊長となる。
6月17日の関田での戦いにおいて戦死。その様子は岡本唯四郎の日記によると
「和多田貢敵の小銃に当たり背より胸を打ち抜かれ候へども、自身小銃を込替へ打たんとして倒れる」
またその日のいでたちは、「モヘール羅紗にて覆ひたる兜盃を戴き、
麻の地太にて裁縫したる陣羽織の背に義の字を大書したるものを穿ち義経袴を履」いていたという。
呈書(なんなのかよく分からない…脱藩時に執政に出した書のことかな…?)に添えられた歌
我君の二心なきまこころを
 神と人とに告げんとぞ思ふ
千萬の後の世までに我君の
 御名穢さじと思う許りに
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